助長 —助ケテ長ゼシムコト勿レ

助長には助け伸ばすという意味があり、日本ではどちらかと言うとプラスのニュアンスで使われることが多い。原典である「孟子の公孫丑編」では「浩然の気」はこれを日頃から養い育てる事はできても、意図的に助け伸ばすことはできないとして孟子は弟子=公孫丑にたとへ話をするのです。

昔宋の国人が麦の苗を引き伸ばして帰ってきて「今日は麦の苗が育つのを助けてやってつかれた」と言って寝てしまったので、息子が慌てて畑へ行ってみると麦の苗が引きぬかれてすべて枯れてしまっていた・・・・というのです。

宋は周に滅ぼされた殷(商)の紂王の異母兄微子啓が先王朝の宗廟を守るため周王朝により旧殷領の東半に封じられた国にである。待ちぼうけ(守株待兎)の話も有名。一説に殷・宋は遠く日本人のルーツであるともいいその結果を求めるに急なところとその方法を墨守しがちな傾向性はあながち当たらずと言えど遠からずと言えなくもない。先進文物の吸収強化は得意だが強化助長したことが仇となって旧手法の墨守や二兎を追ってみたりして慌ただしくせわしない性分でもある。ちなみに儒教の祖孔子も墨守という言葉のルーツである墨子もまた宋の出自であるといわれている。公孫丑で孟子と対比されて出てくる告子は墨家の思想家である。

くだって聖徳太子が隋に遣わした文書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」の文言がありますが、殷(商)は太陽を崇める氏族社会の共同体であったようでそういう意味でも日本に近いものがあるのでしょう。

自民党の憲法草案で日本人の伝統の中に聖徳太子の「和をもって貴しとなす」ということがあるのでその精神を盛りこんだというような事が言われていてそのことが気になって書いているのです。

聖徳太子という人の「人となり」が史実としてそれほど明確ではありません。蘇我馬子と協力して推古天皇(日本最初の女帝)を補佐し先進国であった隋の文化を積極的に導入し政治改革を行った。仏教を篤信した。というようなところでしょう。道元などは太子を仏教徒として一流の(釈尊の系譜につながる)人物とは認めていません。

「和を持って尊しとなす」が「和して同ぜず」の意味なら良いのですが、ここに助長の人為が加わると「同調しないこと」が押し並べて「悪しき事」になってしまうことを憂慮するからであります。

お家大事の三本の矢も有名ではありますが「何のため」という議論を抜きにしてしまうと「同調強要」の動きになって勢いで事が進んでしまいがちなのがよくないと思うのです。告子は得心できなければその勢いに背を向けろといい、孟子は回りくどいけれども勢いの基盤を切りくずし、得心できるまでに再構築する事のできる人物に自分を育てろと言っているのです。

消費増税もTPP(社保民営化、労働市場自由化、農政改革)も税と社会保障の一体改革もすべてが関連しそれぞれが現状に照らして「国家財政上喫緊の」課題に違いありません。総論賛成・各論反対をどうまとめに持ち込んでいくのかというところで「同調圧力を成文化する」ような逆モーションのやり方はかなり変だと思うし、そして最終的な方法はもちろん外圧頼みというのでこれが(今の日本では)一番現実的だけど相変わらずの無責任さは否めません。

ホラティウス兄弟の誓い 3×3で戦いただ1人生還

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日本の敗戦による「無条件降伏」は歴史的事実です。戦後の日本経済の高度成長も日本の無条件降伏を前提とした「アメリカと日本という元請・下請構造」に支えられて出来上がったものであるのは間違いはありません。戦後日本の農業制度も終身雇用制度も社会保障制度もすべてがこの元請・下請構造に根深く影響され支えられて初めて成り立ったわけでそれがとっくに抜本的に見直さなければならない時期に来ているのですが、もちろんアメリカは日本をその軛から逸脱することを許すことはないでしょう(再度アメリカと戦って勝たない限り)。

日本をどう取り戻すのかわかりませんがそのための方法に関してははるかに忍耐強い徹底的な国民的議論とそれなりの犠牲や覚悟を必要とすることは否めません。いたずらに同調をもとめてロマンを追うのではない、新古典主義的なリアリズムを理解できる政治家が出てきてほしいものであります。